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Japanese for Peacethis is a blog of Japanese for peace in Australia Melbourne! June 20 ワークショップ基地問題(オーストラリア、グアム、沖縄)6月14日(土)メルボルン市内、Green Building で行われた米軍基地問題のワークショップには、60人くらいの参加者があり(うちJfPのメンバー、そして沖縄出身で、今回発表をした与那覇麻紀さんが連れて来て下さったたくさんのお友達を含 め、日本人は20人近く参加していました)大変有意義で充実した会議となりました。 今回のワークショップは、それぞれに米軍基地を抱えるグアム、沖縄、そしてオーストラリアの活動家や専門家たちが、それぞれの観点から、現地の人々や環境に与える影響や問題点などを発表し、後半ではそれについて国別に3つのグループに別れ、それぞれの問題にどう対応すべきかを討議しました。 今回のスピーカーは、全部で4名。ゲストスピーカーのLisa Natividad (グアム大学社会福祉講師)さんはグアムの地理や歴史について説明しました。先住民はチャモロ人で人口の半数近くを占め、チャモロ語と英語が公用語です。1898年の米西戦争からアメリカ合衆国の領土になりましたが、1941年からは日本軍が占領統治。1944年にアメリカが奪還し1950年 から現在に至るまで、アメリカがグアムでの自治的、未編入領域という政治的地位を得ています。米国の太平洋戦略上、重要な基地のひとつとして利用されています。米軍基地がグアムで占める面積は3分の1にも及び、米軍が訓練などで使用する化学兵器などから流出する毒素のために一般市民の健康が害されています。たとえば、心臓疾患、糖尿病、ガン患者が増加、また新生児の体重減少などが見られるそうです。環境問題、文化、伝統の消滅危機が心配され、さらには米空軍の戦略機が墜落する事故のために一般市民が被害に遭うなど、米軍基地がグアムの人々に与える深刻な問題が語られました。 続いて沖縄出身のマキさんが、沖縄における米軍基地について発表しました。沖縄が米国から72年に返還されて以来、米軍基地はむしろ増加して、今では日本にある 米軍基地の75%が沖縄に集中しています。そして普天間飛行場を日本に返還するために代替施設を2014年までに辺野古沖に建設する予定になってます。世界に誇れる珊瑚礁が群生する美しい海にです。大規模の環境破壊と共に、その海域に生息するジュゴンなどのマリーンアニマルへの影響も懸念されます。グアムと同様、戦闘機の墜落事故、米軍兵によるレイプ事件など犯罪が後を絶ちません。更に米兵が罪を犯しても地位協定があるために現地で裁きを受けないで米国に帰還してしまうことも度々です。また戦闘機の低空飛行による騒音、基地がいたるところに点在しており、学校と至近距離に建設されているところもあるので、子供たちを含む一般市民が常に脅威を感じながら生活してます。また沖縄は長寿として知られていましたが、アメリカからスパムやファーストフードなど脂肪が極端に多い食材が導入されてから、伝統的な沖縄料理からアメリカ的な食生活に大きく変化し、今では日本国内でも肥満が一番多い県になり、男性の寿命も以前に比べて短くなっています。 以上がマキさんのスピーチの概要ですが、沖縄で生まれ育った「ウチナンチュ」の立場からの発表で、とても説得力がありました。お金のために地域社会が分断されてゆく悲しみについて触れた最後の箇所では、マキさん自身も胸が一杯になって詰まってしまい、会場で聞いていた観衆ももらい泣きをしてしまったほどです。私も隣に座っていた人からティシューを貰いました、、、。 前半と後半の間にティータイムが入り、そこではマキさんが主宰する「つぶつぶクッキング」のメンバーが作ったおからのクッキーをいただきました。さらにマキさんが会場に連れてきていた沖縄民族衣装に身を包んだちえ子さんが、三線を演奏して沖縄民謡を観客と共に歌いました。 重たいトピックのワークショップだけに、会議の合間のエンターティ メンとで参加者は癒されました。 後半は、グアムからのJulian Aguon(人権活動家、ライター)さんが、沖縄から米海兵隊がグアムに移駐することによる今後の懸念を中心に話しました。8千人の海兵隊がグアムに移動すると、既に駐留する米軍兵を合わせると55,000人にもなり、グアムに住む先住民が6万人なので、先住民を圧倒する様な数になります。また先に Lisaさんが述べた問題が更に拡大さ、その影響が交通の渋滞、家賃、ガスや食品などの値段が高騰すると予想されます。学校、病院など公共施設への人種的隔離(アパルトヘイトを思い起こします)。またグアムに建設される施設の整備費102.7億ドルのうち、日本側が 60.9億ドルを負担することも特記しておきます。 最後のスピーカーは、Nautilus InstituteのRichard Tanter教授がオーストラリアのアリス・スプリングス南方にあるアメリカ軍の秘密基地、Pine Gapがどのような機能を果たしているかを説明しました。基地のサテライトにより、レーダーやミサイルを察知、防御したり、またここからのアフガニスタンやイラクでの戦闘の指令が出されていることなど、中で行われているオペレーションについて細かに解説してもらいました。さらに新しく建設される Geraldton/Kojarena防衛サテライト基地のこと、米豪合同軍事訓練の拡大への懸念なども。詳しくは、www.globalcollab.org/nautilus/australia/ 4人のスピーチを聞き、グアム、沖縄、オーストラリアが抱えている問題点に類似点が多いことを再確認させられました。最後にそれぞれのワークショップで行われた議論について発表しました。 沖縄についてはわたし、カズが行い、以下の点を上げました。 - YouTubeなどを使って、沖縄の現状、そして辺野古の環境やマリーンアニマルに及ぼす影響を世界の人達に知らせる - Online Petitionを利用して、世界中の人に関心を持ってもらい、 日本の政府に反対の意思を伝える。 -学校などに出掛けて、生徒達に教える。 -日本、そしてオーストラリアのメディアに呼びかける。 -グアム、オーストラリアの活動家たちと連帯を計り、情報や意見を 交換する。 -JfPのコンサートやイベントでも沖縄のことを伝える。 その他にも、グアムのジュリアンが提案したことは、以下のサイトからレターをダウンロードして、Duncan Kerr議員(Parliamental Secretary) にメッセージを送る。 www.anti-based.org 最後の挨拶では、今回のワークショップを発案、企画したNic Macellan さんが、JfPが今回のイベントに参加したこと、特に今回は沖縄のスピーカーとして大役を努めてくれ、更には「つぶつぶのクッキー」、そして沖縄民謡のエンターティメントとの用意など、大きな貢献をしてくれたマキさん、そして永見さんとともに事前の打ち合わせのミィーティングへの出席や準備で大活躍して下さったにも拘らず、当日は残念ながら風邪で出席出来なかった中村さんのことを大変感謝しておられました。 香寿代 プレストン April 21 JfP代表が、キャンベラで行われたNPO 再検討会議準備のためのコンサルテーションに参加4月7日、 外務省官僚とNGO代表者とのミーティング、出席しました。以下、簡単にご報告させていただきますね。今回は ICAN キャンペーナーのJessica さんが主だったNGOに呼びかけてイニシアティブを執っていました。 10時から始まって間に15分のブレイクがありましたが、1時に終了するという結構長いミーティングでした。DFAT (Department of Foreign Affairs and Trade)側からは計6人が出席。Ian Biggs (Assistant Secretary of Arms Control and Counter-Proliferation Branch)さんが代表でコメントしたり、NGO からの質問等に答えていました。 NGO 側は、19団体が出席。MAPW、WILPW、FoE などのお馴染みの団体の他、Mayors for Peace、反核科学者の有名な国際組織パグウォッシュなども代表が来ていました。そういう中でまだ小さなできたばかりのJfP が仲間に入れてもらえたことは本当に光栄だったと思います。 今回の会合の趣旨は、2010年の行われるNPT再検討会議(5年ごとに行われます)に向けて、オーストラリア政府はリーダシップを執るべきであり、(核廃絶に向けて国際的な働きかけを提起しようと90年代半ば立ち上げられた)キャンベラ委員会が復活する必要がある、まだウェッブもできていないなどいくつかの団体から指摘されていました。 NPT に参加していないインドにウランを売るなどあってはならない、セーフガードが不十分ではないか、オーストラリアも米国との軍事同盟に縛られている限りは核の傘下にある、このような関係は核廃絶の障害となるといった厳しい意見も昨年 Palm Sunday を成功させた Felicity さんなどから出されました。 NPT再検討準備会議には、NGO からも出席できるようにして欲しいという要請も今回の中心課題となっていました。 私はJfP の代表として、JfP誕生のきっかけ、設立目的、活動内容など簡単に説明し、9条についても触れました。Ian Biggs 氏は、過去のNPT会議での日本代表の発表はいつも Moving だったと述べていました。日本人グループがメルボルンで頑張っていることはいくらか印象付けることができたかもしれません。そうした意味ではよい刺激となり、JfPへの期待も大きいのではないかという思いをして帰ってきました。 ふとこういうNGOと政府関係者の非常にポジティブな会合って日本ではどの程度やられているのかなと思ったりもしました。核廃絶であれだけの運動をしている割には日本政府の取り組みが(アメリカに遠慮しているせいでしょうか)弱いですよね。 以下、JfPがキャンベラでの会議に提出、また発表をした声明文です。 STATEMENT for NGO CONSULTATION, CANBERRA 7 April, 2008 Dr. Hideko Nakamura, Japanese for Peace (JfP) www.jfp.org.au My name is Hideko Nakamura. I am a co-founder of Japanese for Peace, a Melbourne based peace group formed in March 2005 in the lead up to the 60th anniversary of the first atomic bombs dropped on civilian populations in Hiroshima and Nagasaki. JfP was formed in response to a perceived need to raise awareness about this uniquely, and tragically, Japanese experience. We hoped that through this sharing more could be done to prevent war and cultivate a culture of peace. We advocate the abolition of nuclear weapons, the renunciation of war and the importance of taking war responsibility in order to bring about true reconciliation. To fulfil these purposes we work together with our Australian counterparts in a variety of peace building activities including academic forums, workshops, film screenings, and peace education activities. We see our role as sowing the seeds of peace, cultivating multicultural understanding and overcoming discrimination within the wider community through our cooperation with community groups and through our own activities, always attempting to engage a wide-cross section of the Australian community in Melbourne. The scope of our activities is also international, as we maintain contact with other peacebuilding groups in Japan and beyond. Each year we commemorate the anniversary of the bombing of Hiroshima and Nagasaki, to remember the victims, create awareness and hopefully prevent recourse to the use of such warfare again. Our first commemorative concert at Federation Square in Melbourne in August 2005 attracted a crowd of more than one thousand people. Subsequent concerts have continued to draw large crowds, reflecting a community-wide concern for peace, and understanding of the real threat of nuclear warfare and the need for disarmament. Guest speakers at the first event included Senator Lyn Alison, Roland Oldham (trade unionist and advocate for the Pacific survivors of French nuclear testing) from Moruroa and local peace activists. Subsequently we held similar peace concerts in August 2006 and 2007 where the stories of Japanese survivors of the atomic bombings were told. Australia and Japan thankfully enjoy peaceful relations today although it cannot be denied that there remains some deep-lying resentment, particularly amongst elderly Australians who remember Japan as an enemy nation not so long ago. We believe that we have a strong responsibility to share the histories of both nations, for example the history of Japanese political repression on its march to militarism, as a means of fostering a thorough understanding and peace between our two peoples. Both Australia and Japan play an important role in the international nuclear cycle and with these roles come responsibilities: Australia as an exporter of radioactive uranium, and Japan as the first civilian victims of nuclear warfare. The peaceful relationship Australia and Japan enjoy today offers the perfect opportunity for both countries to work in concert to make a firm stand for nuclear disarmament. With Australia's ascendancy as a nuclear state, at least in so far as its aforementioned implication within the international civil nuclear industry, comes an important responsibility to tread and trade carefully, particularly given the well documented links between civilian and military usages of nuclear materials. It is with an understanding of the significance of this historic opportunity, on which hinges Australia's foreign policy and standing during the next crucial period, that we call on the Australian government to establish and, more importantly, properly enforce the most stringent of regulations for both the mining and trading of radioactive materials, particularly to limit mining output and outlaw trading with states which continue to refuse to sign the Nuclear Non-Proliferation Treaty, and with corporations which have a record of having profited from the spread of sensitive technology to such states. We also call on the Australian Government to take strong independent action to adhere to the Nuclear Non-Proliferation Treaty, and move nuclear disarmament to the centre of Australian foreign policy, acknowledging that world-wide nuclear disarmament is in Australia's security interests, and demonstrating that Australia will not shy away from taking moral leadership on this issue. The hibakusha, or survivors who have lent their gravitas to our movement and have courageously shared their horrific experiences of suffering with us, continue to stress that the deaths of their families and friends, and their own suffering, must serve as a warning against further nuclear warfare. We must all make a commitment to prevent current and future nuclear warfare and realise our common interests in peace, regardless of our nationality, creed, political background or race. Nuclear weapons cannot co-exist with humankind. We must learn the lessons of the past. This is their message. April 01 「ヒロシマの空」林 幸子 作29日のフォーラムでは、JfPのメンバー中村ひで子さん、そして Sue Stanfordさんの「ヒロシマの空」の朗読がありました。 Sueさんが、最初に英語に訳されたものを朗読されて、つづいて中村さんが日本語の原文を朗読されました。会場は一瞬にして静まり、私たちは自分達が1945年8月のヒロシマにいる様な錯覚を起こしました。観客の中には朗読の間中、目頭を抑えている人もありました。とても悲しい詩ですが、戦争と言う哀れで悲惨な現実を教えてくれます。 以下、朗読された詩を貼付けます。 The Skies of Hiroshima (by Hayashi Sachiko) That night I slept rough at last I got to the place where the survivors had gathered only Dad was there Mum and Yuuchan were dead… The August sunlight reflected off the Yahata River and blocked Dad’s and my cries in our throats. The next day Dad, with an empty candy box dangling from his hand, me, with a hoe over my shoulder, trudged into the ashes of Hiroshima. Finally there, Hiroshima was full of the smell of burnt people. They smelt like scorched fish. Dad and I gingerly crossed what was left of the ferro-concrete bridge. There were even more corpses than the day before. In the heat of midsummer bodies had swollen up the insides protruded spirals of intestines making a faint noise. Murky yellow liquid ran from noses, from mouths, from ears and eyes. Ah, over there, I could see the warehouse wall, the ruins of the home I loved. In the well a charred kitchen knife was floating. At the back of the kitchen the cauldron had fallen with the remains of the pumpkin we’d had on the morning of the sixth burnt on to its sides. Shards of teacups were scattered about. When I tried to drive the hoe through the rooftiles it wouldn’t go. Dad crossed over the tiles and started to remove them by hand. Exhausted, his voice faint, Dad pointed. I threw away the hoe and dug. In the heat of the sun we tore up burnt tiles – silent – with all our might. Ah! Mum’s bones. Ah! when we grasped them tightly white powder blew on the wind. When Mum’s bones entered my mouth they tasted so lonely. An unbearable sadness enveloped us, who had been left behind, Dad and I. Hurrying, crying out loud, the two of us picked up the bones. As we put them in the candy box they made a faint noise. My little brother was right beside Mum. He was not just bones some of his insides hadn’t burnt. They had rolled out of him. On his insides were stuck some bits of cotton from his bedding. ‘I want to die!’ Dad shouted out. He held my brother’s remains and wept. From the ruins an iron pipe stuck up and water poured out of it like out of a fountain. Like it was the only remaining life it was bathed in sunlight. I caught some water in a cracked teacup and offered it before my brother’s remains. Dad took some rationed hard biscuits. I closed my eyes tightly. Dad couldn’t help hearing the voices of the two of them as they were buried alive. After a while on Dad’s uninjured body spots appeared. Dad did not want to live but feeling sorry for me who would be left behind he forced down some food. ‘I’d like some grapes. Cucumber would do.” On the morning of 1st September I squeezed a cucumber added some sugar and made some juice. Dad revived and looked at me and smiled though his voice was full of tears. Suddenly Dad looked up into the empty sky ‘What a wind! A storm is coming. A storm,’ he said and sighing deeply just there and then he collapsed and stopped moving. In less than a month I had become totally alone. After the flow of tears my body felt like it had no focus. I looked at the river flowing in front of me the beautiful, fair weather blue sky of Hiroshima. ヒロシマの空 林 幸子 夜 野宿して やっと避難さきにたどりついたら お父ちゃんだけしか いなかった ――お母ちゃんと ユウちゃんが 死んだよお…… 八月の太陽は 前を流れる八幡河(やはたがわ)に反射して 父とわたしの泣く声を さえぎった その あくる日 父は からの菓子箱をさげ わたしは 鍬(くわ)をかついで ヒロシマの焼け跡へ とぼとぼと あるいていった やっとたどりついたヒロシマは 死人を焼く匂いにみちていた それはサンマを焼くにおい 燃えさしの鉄橋を よたよた渡るお父ちゃんとわたし 昨日よりも沢山の死骸(しがい) 真夏の熱気にさらされ 体が ぼうちょうして はみだす 内臓 渦巻く腸 かすかな音をたてながら どすぐろい きいろい汁が 鼻から 口から 耳から 目から とけて流れる ああ あそこに土蔵の石垣がみえる なつかしい わたしの家の跡 井戸の中に 燃えかけの包丁が 浮いていた 台所のあとに お釜が ころがり 六日の朝たべた カボチャの代用食が こげついていた 茶碗のかけらが ちらばっている 瓦の中へ 鍬をうちこむと はねかえる お父ちゃんは 瓦のうえに しゃがむと 手 でそれをのけはじめた ぐったりとした お父ちゃんは かぼそい声で指さした わたしは鍬をなげすてて そこを掘る 陽にさらされて 熱くなった瓦 だまって 一心に掘りかえす父とわたし ああ お母ちゃんの骨だ ああ ぎゅっ とにぎりしめると 白い粉が 風に舞う お母ちゃんの骨は 口に 入れると さみしい味がする たえがたいかなしみが のこされた父とわたしに おそいかかって 大きな声をあげながら ふたりは 骨をひらう 菓子箱に入れた骨は かさかさ と 音をたてる 弟は お母ちゃんのすぐそばで 半分 骨になり 内臓が燃えきらないで ころり と ころがっていた その内臓に フトンの綿が こびりついていた ――死んでしまいたい! お父ちゃんは叫びながら 弟の内臓をだいて泣く 焼跡には鉄管がつきあげ 噴水のようにふきあげる水が あの時のこされた唯一の生命のように 太陽のひかりを浴びる わたしは ひびの入った湯呑み茶碗に水をくむと 弟の内臓の前においた 父は 配給のカンパンをだした わたしは じっと 目をつむる お父ちゃんは 生き埋めにされた ふたりの声をききながら どうしょうもなかったのだ それからしばらくして 無傷だったお父ちゃんの体に 斑点がひろがってきた 生きる希望もないお父ちゃん それでも のこされる わたしがかわいそうだと ほしくもないたべ物を 喉にとおす ――ブドウが たべたいなあ ――キウリで がまんしてね それは九月一日の朝 わたしはキウリをしぼり お砂糖を入れて ジュウスをつくった お父ちゃんは 生きかえったようだとわたしを見て わらったけれど 泣いているような よわよわしい声 ふと お父ちゃんは 虚空をみつめ -風がひどい 嵐がくる……嵐が といった ふーっと大きく息をついた そのまま がっくりとくずれて うごかなくなった ひと月も たたぬまに わたしは ひとりぼっちになってしまった 涙を流しきった あとの 焦点のない わたしの からだ 前を流れる河を みつめる うつくしく 晴れわたった ヒロシマの あおい空 主婦、二三歳、原爆で両親と弟を失う。 当時、市内昭和町(原爆地から二キロ)に在住。 「原子雲の下より」1952・9 (出典:『小さな祈り』 汐文社) 日豪ピースフォーラム発言原稿29日にメルボルンで行われた日豪ピースフォーラムの「草の根メディア9条の会」代表の二橋元長さんの発言原稿をご本人から許可を頂いたので、このブログに貼付けさせて頂きます。
実際には、間に通訳が入ったことと、時間の制限があったため、短縮バージョンで発言して頂きました。 以下はフルバージョンです。 日豪ピースフォーラム発言原稿 二橋元長 ■戦争の反省のうえに いまから63年前まで、日本は戦争に明け暮れていた。 とくに、1931年の中国東北部への武力侵攻以降、15年にわたっておこなわれたアジア・太平洋戦争では、2000万人ともいわれる人々のいのちを奪い、日本国民も300万人が犠牲になった。この戦争で日本は、オーストラリアともたたかい、少なくない悲劇を生んでいる。 この戦争は1945年8月15日、日本の敗北で終止符が打たれた。 1947年、日本は戦争の反省のうえに、戦争を放棄することをうたった第9条を持つ日本国憲法を制定した。 日本国憲法9条は、「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」という3つの柱から成り立っている。 第1の「戦争放棄」では、侵略戦争はもちろんこと、自衛戦争をも放棄していることが大きな特徴だ。 ご承知の通り、侵略戦争については、古くは1791年のフランス共和国憲法以来、多くの国々の憲法でも否定されている。 戦争を違法とする考え方は1929年のパリ不戦条約でうちだされ、国連憲章にも受け継がれている。が、これらは自衛のための戦争までは否定していない。 その点では、自衛戦争まで放棄したのは日本国憲法だけで、ここに平和憲法といわれる理由がある。 この憲法を制定するとき首相だった吉田茂氏は、国会答弁で「すべての戦争は自衛のためといって行われた」と述べ、明確に自衛戦争をも否定している。 日本国憲法が、国連憲章より一歩踏み込んで、自衛戦争まで否定した背景には、広島・長崎に原子爆弾が落とされたことがある。というのは、もし第3次世界大戦が起これば、それは核戦争となる。そうなれば戦争に勝者も敗者もなく、人類は死滅する。それを避けようとすれば、戦争をなくすしかないという考えが働いていたからだといわれている。 第2に「戦力不保持」をうたったのは、戦争を放棄するだけでは不十分だからだ。 かつて日本は、宣戦布告することなく、「事変」という名のもとに中国への武力侵攻をすすめ、結局、アメリカやヨーロッパなどとの戦争へと突き進んでしまった。 この反省のうえに、いっさいの戦力を持たないと宣言したのだ。 軍事力を持たなければ、仮に意思があっても、戦争することはできない。戦争に至らないまでも、武力の行使も武力による威嚇も不可能になるからだ。いま世界には、軍隊を持たない国が30ほどあるといわれている。日本は、その先鞭をつけたのだ。 第3の「交戦権」は、国家として戦争を宣言する権利である。いわば、国家の名のもとに殺人を合法化する権利である。これを否認することで、憲法前文がうたう「政府の行為によって再び戦争の惨禍が訪れないように」することを宣言した。政府に対し、「戦争するな」と命じた意味は大きなものがある。 そして日本国憲法には、9条以外にもたくさんの平和条項が散りばめられている。 たとえば18条は徴兵禁止を意味している。 73条には戒厳令の規程がない。 76条は軍事裁判所を認めていない。 天皇や摂政、国務大臣など政治を司る人々に憲法尊重義務を負わせた99条は、国民主権を高らかにうたった前文とともに、この憲法の平和的・民主的原則をもっとも明確にうたった条項といえる。 だからこそいま、政治を司る側から「憲法を変えよう」といううごきが露骨にすすめられている。なぜなら、彼らにとっては、「戦争するな」とうたったいまの憲法は窮屈で窮屈でたまらないからだ。 野蛮な国から平和な国へ さて、この憲法を制定してから60年たった。 60年前の日本は、世界一野蛮で残酷な国というイメージで、世界から見られていた。 しかし、この憲法を制定して以降、日本は60年間、まがりなりにも戦争で他国の人間を殺したり、他国の人間から殺されることがなかった。 その結果、いまでは日本は、広島・長崎とともに、平和憲法を持つ国、平和な国、戦争をしない国として知られるようになっている。 私は、インドやブラジルでひらかれた世界社会フォーラムなど、いくつかの国際会議に参加したことがあるが、そこで多くの海外からの参加者が憲法9条のある日本をうらやましがっているのを聞いた。 もちろん、朝鮮戦争やベトナム戦争で、日本がアメリカの戦争の足場となったことを、私たちは知っている。 いっさいの戦力を持たないといいながら、世界で第3位ともいわれる自衛隊が存在することを、私たちは知っている。 いまアフガニスタンやイラクで戦争を行っているアメリカ軍を助けるため、自衛隊を遠くインド洋やイラクにまで派兵し、占領政策に加担していることを、私たちは知っている。 そんな日本が、国際社会から不信感を持たれていることを、私たちは知っている。 アメリカが引き起こしたイラク戦争では、とうとう自衛隊が戦闘地域にまで派兵されてしまった。「9条は死んだ」と嘆いた人々もいた。 しかし、それでもなお、自衛隊が実戦に加わることなく、サマワの地で給水活動など復興支援の活動にとどまっていたのは、憲法9条があったからだということを、私は強調しておきたいと思う。 残念ながら航空自衛隊は、いまなおイラクに残っているが、陸上自衛隊は、一人の犠牲者も出さず、一人のイラク人も殺さず、無事に日本に引き揚げてきた。多くの自衛隊員やその家族が、「憲法9条のおかげで命拾いすることができた」と感謝の意をあらわしていたのが、印象的だった。 政治を司る人々が、何度も何度もアメリカの戦争に参加しよう、協力しようと企てたが、そのたびに戦争への道を歩ませまいと、彼らの前に立ちはだかり、ストップをかけてきたのが憲法9条だった。その背後には、戦争を否定する多くの国民の声と行動があったことも、ここで強調しておきたい。 これに対して、おさまらないのはアメリカだ。 すでに自国一国だけでは世界を支配しえないことを知っているアメリカは、憲法を変えていっしょに戦争をしようと、大きな圧力を日本にかけてきている。 だからいま、日本の軍国主義者たちは憲法を変えようと躍起になっている。事態は余談を許さない。が、そのことは、あとで話そう。 国際的に注目をあつめる憲法9条 第2次世界大戦が終わって、まもなく63年になる。 この間、残念ながら世界では戦火が絶える日がなかった。 そうしたなかで60数年にわたって日本に戦争をさせずにきた憲法9条に対して、国際的な関心と注目があつまっている。 その端緒となったのが、1999年にオランダのハーグでひらかれたハーグ国際平和市民会議だ。この会議で「各国議会は、日本の憲法9条のような戦争を禁止する決議を採択すべきである」と宣言された。 2005年にひらかれた「紛争予防国連会議」や、2006年のバンクーバー世界平和フォーラムなどでも、同じような決議が採択されている。 いまイラクの人々は、もし自分たちの国の憲法に9条のような条項があったなら、こんなにも苦しむことはなかったろうと語っている。 アメリカの裏庭から脱し、新たな国づくりをすすめる南米・ボリビアのモラレス大統領は、これから改正する憲法には、9条のような条項を織り込みたいと語っている。 いま、世界の人々が9条に熱い視線を向けているのだ。 そうしたなかで、今年5月には、日本で「9条世界会議」という国際会議が開催される。ここには世界各地から平和を求める人々が集まり、憲法9条が持つ国際的・普遍的な価値について語りあうことになる。そこでは、憲法9条をさらに世界に広めることが確認され、武力によらない平和への展望を大きくきりひらくことになるだろう。 武力によらない平和など、理想的で、現実的ではないといわれつづけてきたが、そうした主張こそが、非現実的で空虚であったことが、以上の例からもハッキリと見てとれるだろう。9条はいま、平和な世界、平和な未来を望む世界の多くの人々の心をとらえ、人類の希望となっている。 ■戦争しか考えつかない人々 しかし、残念ながら日本には、憲法9条の価値がわからない政治家が少なくない。彼らは、スキあらば、これを変えてしまおうと機会をねらっている。 彼らの主張は、60年間一貫している。 それは、憲法9条が主張する「戦争放棄」は、侵略戦争の放棄であり、自衛権まで否定したものではないこと。 第2に、「戦力不保持」は国際紛争を解決するための手段として放棄したものであり、自衛のためや国際貢献のためには、一定の戦力を持つことは認められること、というものであり、 それらを9条が認めていないというのなら、憲法を変えて、普通の国のように自衛のための軍事力を持てるように憲法に書き込むべきだというものだ。 そして、ことあるごとに「攻められたらどうする」「国益を侵されたらどうする」と、国民に対して脅しをかけ、9条を葬り去ろうとしている。 一昨年、北朝鮮がミサイルを発射し、核実験を行ったと発表したとき、彼らはこぞって北朝鮮制裁を叫び、軍事力の強化を叫び、核兵器を持つことまで口にし、改憲を声高に叫んでいた。 しかし、私たちは、こうした「力には力を」という声高な対応が、北東アジア地域の平和と安全にとって効果があるどころか、かえって事態を複雑にし、より深刻にするだけであることを冷静に指摘し、こうしたときこそ、憲法9条の精神にもとづき、平和的・外交的努力を惜しみなく行うことが大事であると訴えてきた。 どちらの主張に大義があったかは、その後の事態の推移を見れば明らかである。 その後に開催された6者協議は、北朝鮮に核政策の放棄を約束させるなど、少しずつではあるが平和解決への展望をきりひらいてきている。 一方、北朝鮮制裁を叫び、先頭になって「改憲の旗」をふりつづけた安倍首相は、昨年夏に行われた参議院選挙で歴史的な敗北を喫し、政権を放り出すにいたった。 これにより、憲法9条を根本から変えてしまおうとする勢力のねらいは、大きく後退することになった。 戦争は答えではない 軍事力で平和をつくりだすことができない。 戦争で平和を実現することができない これは、イラクやアフガニスタンの例を見ても明らかだ。 現にアメリカは世界最強の軍隊を16万人もイラクに送り込みながら、開戦から5年たったいまなお、バグダッド一つ安定させることができないでいる。 アメリカは第2次世界大戦に勝利して以降、世界の警察官を自任し、各地の紛争に武力介入してきたが、中米の小さな国であるグレナダ、パナマへの侵攻以外、ただの一つとして勝利できた例はない。朝鮮戦争は引き分けだったし、ベトナム戦争では大敗北を喫した。湾岸戦争は勝利できなかったからこそ、今日のイラク介入があり、アフガニスタンでも大苦戦をしている。 これらの事実こそ、戦争は答えではないことの証明である。 どんなに軍事力を強大にしても、高度国防国家をつくりあげても、平和や安全が保障されないことは、9.11事件で、アメリカ自身がイヤというほど思い知らされたはずだ。 同様に日本も、かつての戦争で、そのことを十分に味わったはずだ。 なぜなら、戦前の日本は、最終的には国家財政の半分までを軍事費に費やし、世界に冠たる軍事力を誇り、最強の国の一つに成り上がっていた。しかし、その行き着いた先は、国土は焦土と化し、国家は破たんするという惨めな結果だった。「剣を持つものは剣にて滅ぶ」を地でいくことになったのだ。 考えてみれば、食糧もエネルギーも自給できない日本は、諸国とコトを構えたところで、いったん経済封鎖されたら、ひとたまりもないぜい弱さを持った国である。 砂利を運搬するクレーン船が川を走行中に高圧電線を切断する事故を起こしたり、台風などでライフラインが寸断されるだけで、日本列島はパニックになる。 こんなとき、戦車や戦闘機や軍艦は何の役にも立たない。 それどころか、国民を守るはずの護衛艦によって漁船が沈められ、ジェット戦闘機の騒音にさいなまれ、墜落の危険に脅かされている。 守るというなら、私たち国民のいのちを守ってほしい。くらしを守ってほしい。 偽りの脅威や危機をあおるのではなく、目の前に存在する現実の危機にこそ、きちんと向きあってほしいというのが、日本国民の率直で、切実な願いとなっている。 平和へと向かう世界 いま世界は、平和の方向へ大きく動き始めている。 いまやヨーロッパで、戦争が起きることを想像する人はいないだろう。 中南米では、平和と民主主義の新しい流れが起きている。 東南アジアでもASEANを中心に協力・共同の新しい関係が模索されている。 国連加盟国の3分の2以上が、どんな軍事同盟にも加わらないとして、非同盟首脳会議に参加している。 南極を含めて、南太平洋のほとんどが非核地帯となり、北半球でもモンゴルや中央アジア地域などに非核地帯は広がり、核保有国を包囲している。 いまではアメリカと軍事同盟を結んでいる国は、30そこそこしかない。 アメリカのイラク戦争に付き従っている国は、最大39カ国だったが、いまでは21カ国に減り、西ヨーロッパ諸国ではついにイギリスのみとなった。 いまだに軍事同盟に加わり、アメリカのイラク戦争につきあっているのが、日本やオーストラリアである。何とも残念なことだ。 しかし、そのオーストラリアでも大きな変化が起きていることを、私たちは知っている。ブッシュ大統領の盟友であるハワード首相が落選し、政権の交代がなされたことを、日本の国民はわがことのように喜び、これを歓迎している。 アメリカは、「裸の王様」になっていることを、知るべきときを迎えている。 一国覇権主義を捨て、国際社会との平和的協調へと舵を切りかえるべきだ。 その意味では、いま行われているアメリカ大統領選挙で、イラクからの撤退が大きな争点の一つとなっていることに、私たちは注目している。 9条を世界に 2004年6月、ノーベル賞文学賞受賞者の大江健三郎氏ら9人がよびかけた「九条の会」は、その後、全国各地に広がり、いまでは7000を超えるまでにいたっている。私たちが仕事をしている埼玉県でも400近い「九条の会」がつくられている。私たちがつくっている「草の根メディア9条の会」は、労働組合や市民団体など草の根レベルで機関紙やニュースを発行したり、ウェブで発信したり、平和を表現している人たちで構成されている。 私たちはいま、日常的に、「できるときに、できることを」を合い言葉に、憲法9条の価値を発信しつづけている。 9条がありながら、9条をないがしろにし、スキあらば9条を変えてしまおうとねらっている勢力と、日夜対峙している。私たちが毎年夏に行っている「平和のための戦争展」は、戦争を否定し、平和の世論を広げるうえで大きな役割を果たしている。 この3年間、連続して「憲法9条を変えるな」の声が、世論調査でも高まってきているのは、こうした運動の反映である。 先日、沖縄でアメリカの海兵隊員が、女子中学生を暴行するという事件を引き起こした。13年前にも同じような事件が沖縄で起こり、日米両政府は「再発防止」に全力をあげると約束した。しかし、その約束は無惨にも踏みにじられてしまった。 また、ハワイ沖でアメリカ軍といっしょにミサイル防衛の演習を行い、意気揚々と凱旋気分で戻ってきた海上自衛隊のイージス艦が、漁船に衝突し、沈没させるという事故を引き起こしている。 この二つのできごとは、日米両政府がいうところの「世界のなかの日米同盟」が、決して日本国民のいのち・くらしを守るものではないことを、あますところなく示してくれた。 「日米同盟」は、いったい誰を、誰から守るのか…。 いのち・くらしの現場から、「日米同盟」を問ううごきが始まった。 武力で平和はつくれない。戦争で平和はつくれない。 戦争は答えではない。 いまこそ、日本国憲法9条がうたう、武力によらないで平和をめざすときだ。 話しあいで問題を解決する力を、はぐくむときだ。 日本とオーストラリアが「ノー」といえば、世界最強の軍事力を誇るアメリカといえども、勝手気ままに戦争を起こすことはできなくなる。 アメリカの戦争政策を縛るのは、日本とオーストラリアの国民の声と行動にかかっているといっても言いすぎではないだろう。 ともに手を携え、世界の平和に貢献しよう。 March 31 「日豪ピースフォーラム」成功しました!みなさま 昨日はあのような「日豪ピースフォーラム」をJfPが開催できて本当に良かったと思います。 これまでの活動で知り合った多くの友人たち(クエーカーのDale さん、足立さんご夫妻、WILPF のヘレンさん、FoE のジムさん、カナピーさん、FCWA のAnna Songさんなど)多数が来てくれて、さらに各分野で活躍している専門家をゲストスピーカーとして迎え、またわざわざ日本から来てくれたふたつばしさんとそのお仲間も加わっての充実した内容だったと思います。 わたしたちが求めている不戦の精神をよりどころとしている9条を色々な形で伝えられたことの意味が大きかったと思います。カズさんとも話したのですが、南半球で初めての「9条」をテーマとしたNGOフォーラムだったのではないかと思います。しかもわたしたちのような小さな日本人のグループがここまでやったことを素直に誇りとしたいと思います。 ロングデーでしたが、有志の皆さんとフェデレーション・スクエアまで行って Earth Hour にも参加し、日本から来た、川島さんと中村君がエーサーを披露し盛り上がりました。 一部不手際やこうすれば良かったことなど多数ありますが、ともかく成功といえるのではないでしょうか。メンバーのすばらしい力量と共同の力が成し得たことですね。お疲れさまでした。 先ずは写真をご覧ください。 4月18日の「映画日本国憲法」のお誘いもよろしくお願いします。 下に案内をペーストしますね。(日英両方です) 中村 PS あんなさん、シドニーからの応援ありがとう。 |
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